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高山右近は「福者」、マザーテレサは「聖人」へ [歴史]

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http://meigen-ijin.com/motherteresa/

[iモード]高山右近とマザー・テレサの関係[iモード]
先日、戦国〜江戸時代のキリシタン大名である高山右近「福者」へ承認されたとバチカンの発表があり話題となりました。

私は高山右近が「福者」ならば、1997年に亡くなったマザー・テレサはどうなのかなあと思ったら、マザー・テレサは去年ローマ・カトリック教会の最高位である『聖人』に認定されていました。
フランシスコ法王が2015年12月17日に承認しました。

[iモード]マザー・テレサってどんな人?[iモード]
インドのコルカタで貧しい人たちを救済する活動に尽力したマザー・テレサ
カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教師会」の創設者です。
1979年には

「長期間にわたる献身的な働きにより、苦しみのなかにいる人々に安息をもたらした」

ことによりノーベル平和賞を受賞しました。
2003年にヨハネ・パウロ二世はテレサを列福(福者であることを宣言)、2016年にも正式に列聖される見通しです。

マザー・テレサへ祈ったインド人女性の腹部の腫瘍が消えた事が“奇跡”と認められたこと。
また2008年には脳腫瘍を患ったブラジル人男性の妻が、マザー・テレサへ祈った結果、男性の病気が回復した事が二度目の奇跡と認められました。

[iモード]マザー・テレサの本名は??[iモード]
ちなみに「マザー」とは指導的な修道女への敬称、「テレサ」は修道名です。
本名はアルーマニア語で「アグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ」、アルバニア語で「アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ」というそうですが・・・
『マザー・テレサ』さんでいいですね。

列聖式はマザー・テレサの命日に合わせて今年の9月に行なわれる見通しだそうです。
二度も“奇跡”を起こすなんて・・マザー・テレサ、恐るべし、ですね=

高山右近が福者に認定!バチカンが発表 [歴史]

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http://rekishihakken.net/history-person/1098.html

バチカン(ローマ法王庁)は22日、戦国〜江戸時代のキリシタン大名である高山右近

「福者」

として認定し、発表しました。
これは最高の崇敬対象である「聖人」に次ぐ位です。
フランシスコ・ローマ法王が21日に承認しました。

[iモード]信仰を取るか、領地を取るか・・[iモード]
高山右近は現在の大阪府に生まれました。
父の高山飛騨守友照(洗礼名はダリヨ)の影響により12歳の時に受洗し、洗礼名をジュストとしました。

高槻城を落としたかった織田信長
高山右近は金や地位では動かないと判断した信長は

「自分に帰属しなければ高槻城領内のキリシタンを皆殺しにする」

と右近を脅迫。主君の荒木村重は抗戦を訴えましたが、信者を思う右近は信長の元へ下り、荒木勢は敗北。右近は以後も高槻城主として信長より4万石を与えられました。
この時に領内に教会やセミナリヨ(イエスズ会の司祭や修道士を養成するための初等教育機関)を設立し布教に精力を注ぎました。

[iモード]豊臣秀吉からバテレン追放令[iモード]
1587年、豊臣秀吉から『バテレン追放令』が発せられ、キリシタン大名は苦境に追いやられますが、高山右近は領地と財産を信仰と引き換えに捨ててしまいます。
その後は小西行長や前田利家などに庇護されて加賀へ移り住みます。

1614年に今度は徳川家康による「国外追放令」が発令されます。右近は内藤如安らと一緒にフィリピンのマニラへ追いやられます。が、そこで右近を待っていたのはマニラ総督・シルバをはじめとする人々の大歓迎でした。
日本での布教の活躍がイエスズ会の宣教師によってマニラまで伝えられていたのでした。

翌年に高山右近は残念ながら亡くなってしまいますが(享年64歳)、没後400年を経て
『福者』
への承認となりました。

[iモード]列福式は日本で行なわれる予定[iモード]
福者に加える儀式を「列福式」と呼びますが、これは日本で行なわれる見通しです。
日本カトリック司教協議会は右近の福者への承認をバチカンへ働きかけていました。今回の認定にあたり

「右近の生き方は現代に生きる人々を照らす光になる」

と声明を出しました。
なお福者になるには殉教するか、難病の治癒など“奇跡”が一つ認定される事が必要だそうです。
“天国”の高山右近もさぞ嬉しいでしょうね。

忠臣蔵のナゾ [歴史]

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http://www.ako-minpo.jp/news/8263.html

■いまだ人気の忠臣蔵■
12月14日は江戸時代に“赤穂事件”があった日。
赤穂浪士が葬られている東京都港区の泉岳寺では、毎年“義士祭”が行なわれています。

播州赤穂藩の藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が、江戸城松の廊下で指南役である吉良上野介を斬りつけたのが発端。
浅野は即日切腹を言い渡され、赤穂藩は取り潰し。吉良にはお咎めはなかった(当たり前です)。
ここで立ち上がるのが赤穂藩浅野家の家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ/日本人はこの名前の響き、好きですね)は、主君の仇を取るべく四十七人の赤穂浪士が吉良邸に押し入って討ち入りを果たす・・
これがいわゆる“忠臣蔵”です。

■なぞの多い敵討ち■
さてこの事件・・けっこう意味不明なんですね。
まず浅野が吉良を斬りつけた理由が不明です。浅野が吉良に賄賂を渡さなかったことによる関係性の悪化説、単なる好き嫌い説、浅野の突発的な行動などなど。
しかし舞台は江戸城内、神聖にも神聖が重なる場所です。将軍の機嫌を損ねることがあったらそれこそ死活問題。もし意に沿わないことがあったにせよ、刀を抜いた藩主たる浅野内匠頭・・これ如何に??

藩主が切させられた!仇討ちだ!
と大石以下、最初は120名ほどが集まったようですが一人減り二人減り、結局四十七人に。一年半もスパイ活動?を重ね吉良側の目を欺き、討ち入りは決行されました。
平和に暮らしていたはずの吉良さん(御歳60歳オーバーのおじさん)は、狂おしいほど主君を思う若者達に無抵抗で首をはねられたのです。

■庶民感情からわき出た同情論?■
“生類憐れみの令”という悪法(と私は思う)によって民衆は苦しんでいたので、大石たちの行動は世間から快くむかえられました。
処理に困ったのは幕府。やったことは大罪だけど、彼らをただ処刑するのでは民衆の感情をさらにこじらせてしまう・・

ここで出た結論は、
 「彼らは武士の鑑である。だから切腹の名誉を与えるべき」
という、どちらもアゲてしまう見事なやり方。
討ち入り自体、自らの名を上げようとする赤穂浪士の就職活動だったという見方もあります。

ちなみに浅野内匠頭の辞世の句は
 「風さそふ花よりも猶我はまた春の名残をいかにとか(や)せん」
江戸城内で刀を振りまわす割には、良い句を詠みますね。

忠臣蔵などドラマで見ると、「年末だなあ〜」とまたしみじみ思うのです。

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